请日语高手们帮忙翻译一下以下文段(*^__^*)

小国寡民
河上肇

私はこの一文を読んで、放翁の晩年における清福を羡むの情に耐へない。
私は元から宏荘な邸宅や华美な居室を好まないが、殊に晩年隠居するに至つてからは、频りに小さな室が二つか三つかあるに过ぎない庵のやうな家に住みたいものと、空想し続けてゐる。頼山阳が日本外史を书いた山紫水明楼は、四畳と二畳との二间から成つてゐたものだと云ふが、今私は、书斎と寝室を兼ねるのなら、四畳半か三畳で结构だし、书斎だけなら三畳か二畳で结构だと思つてゐる。その代り私は家の周囲になるべく多くの空地を残しておきたい。広々とした土地を取囲んだ屋敷の一隅に小さな住宅の建つてゐるのが好ましい。残念なことに、京都には、借りようと思つても、そんな家は殆どない。
京都人はどういふものか、せゝつこましい中庭を好んでゐる。郊外の相当広い所でも京都人が家を设计するとなると、座敷と座敷とに挟まれた中庭を作つて、その狭い所へ、こて/\と沢山の石を运んで来て、山を筑き池を掘り、石桥を架け石灯笼を据ゑ、松を植ゑ木槲(もくこく)を植ゑ踯躅(つつじ)を植ゑなどして、お庭らしいものを作る。たとひ小さな借家の仅かな空地でも、なるべくそれに似たものにするのが、京都人の流仪だが、私はさうした人为的な庭を好まない。たゞの平地に植ゑられた色々な种类の花卉に取囲まれてゐる家――家の小さな割に地面の広いのが望みである。私は东篱の记を読んで、ちよつとそんな风な住ひを想像するのである。
放翁は五つの石瓮を埋め、それに泉を贮へて沢山の白莲を植ゑたと云つてゐるが、私も出来ることなら、さうした水は欲しいと思つてゐる。今から三十年前、始めて京都へ赴任した时、千贺博士のところへ挨拶に行つたら、それは藁葺の家だつたが、客间の南は広々とした池になつてゐて、よく肥えた绯鲤が、盛んな势で新陈代谢する水の中を游ぎ廻つてゐた。私はそれを见て、ひどく羡ましかつたものだ。そこは下鸭神社のすぐ侧で、高野川の河水が绝えず渗透してゐる低地なので、少し土を掘ると恐らくかうした清泉が自然に迸り出てゐたのであらう。総じて京都のやうな、山に囲まれた狭い盆地の中を川が流れてゐる処では、山手に限らず市中でも、少しばかり土を掘り抜くと水のふき出る场所が多いのである。
请各位高手多多出手哈!谢啦……

小国寡民
河上肇
读了这篇文章,我情不自禁地羡慕起放翁享受晚年清福的情趣。
一开始我就不喜欢宏大的宅邸和华美的居室,直到晚年隐居仍不断的幻想着住上不过只有两三个小房间,茅庐一样的房子。赖山阳写下日本外史的山紫水明楼,据说就是由四畳和二畳大小的房间组成的。如今若书斋兼卧室的话,四畳半,三畳的就够了,若只是书斋三畳两畳的就够了。但我希望房子周围留有尽可能多的空地。我喜欢土地宽大的宅邸,并在其一隅建造一个小住宅。遗憾的是,在京都想租,几乎都租不到这样的房子。
京都人是怎么搞的,喜欢狭小的内院。即使在郊外地方相当宽阔,京都人设计房子时,夹在房子与房子之间也要弄个内院。往那么窄的地方运来石料,造山挖池,架石桥立石灯笼,种松种槲种杜鹃花,做成像庭园一样的东西。即使是租来的房子,一点点空地上也如法炮制。这就是京都人的流派。我不喜欢那种人为的院子。我渴望被种在地上的各种各样的花卉所包围的房子---房子小而地面宽的房子。我读了东篱记,想象出那种风格的住宅。
放翁埋了五个石瓮,其中贮存泉水,种了很多白莲,云云。如有可能,我也想要那样的(泉)水。至今30年前,初赴京都上任时,到千贺博士家去问候,那是一个草屋顶的房子,客厅南面有一个大池子,鲱鱼喂的很肥,在活水中活泼地游来游去。看到这一幕,真羡慕死了。那里紧挨着下鸭神社,是高野川不断渗透的低地,所以稍微一挖,就会自然地冒出这样的泉水吧。总之,象京都这样被山围绕着的狭窄的盆地上,河流流过的地方,不仅山手,就算在市里,挖一点土就出水的地方也很多。
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第1个回答  2010-01-15
读了这篇文章,我对穆翁享受的晚年清福羡慕不已。
从以前开始我就不喜欢很宏伟的住宅和华美的居室,特别是到了晚年退休的时候开始,越来越幻想着能住进那些只有两个或三个小房间的修道院那种房子。据说写出日本外史的赖山阳所居住的紫水明楼是由四个榻榻米和2个榻榻米的大小那么大的空间的两间房屋组成的,但我认为,如果包括卧室和书房的话,四个半或者3个榻榻米的大小大的空间就足够了 要是只算书房的话3个榻榻米或者2个榻榻米的大小大的空间就足够了。相反,对房子周围的空地我想尽可能的多留出来一点。 对我来说在围住很宽敞土地的栅栏的一个角落里搭建一个小房子是最好不过的。但不幸的是,在京都这样的房子相租借也几乎找不到。
京都人的钱包里从不少钱,但他们喜欢小的庭院。当涉及到京都人设计做个房子的的话,即使在京都郊区的一个很大的地方,他们也会做出来客厅之间相连的庭院,然后在这狭窄的地方,运来石头,做假山,挖池塘,做一排有石头灯笼的石桥,种植松树,种植山踯躅(植物的一种)等种植,使它看起来有模有样的庭院。甚至像租房那种很小的空地,也会尽量设计成类似的,虽然这是京都人设计意念,我不喜欢的这样人为做出来的庭院。相比被平地里种植的各样各色种类的花草所包围的房子 - 更希望相对房子小一点但却有更大一点的土地空间那种。我读了东篱记,也有点想住进那种风格的房屋。
听说翁买了5块石翁,然后在里面注入了泉水后种植了很多白莲。如果我也可以做得到的话,我想我也会那样做的。 30年前,第一次去京都时,去访问过千贺博士的家,那虽然是茅草屋,但客厅的南面是一个宽敞池塘,很多肥大的鲤鱼欢快的在干净的水中来回游动。记得看到这场景我除了羡慕还是羡慕。那里是地处下鸭神社的旁边,高野川的河水不断涌入的盆地,所以只要挖一点土的话就有可能清水会冒出来的地方。就像整个京都,被狭窄四面环山的有河水流的盆地的中间还有靠山的市中心,也有很多像这种只要挖一点土的话就有可能清水会冒出来的地方。
第2个回答  2010-01-15
寡民小
河上肇

我读了这句话,在穆翁清福的晚年不抗拒的心理羡释放。
我不喜欢的华美达酒店和洋世友从原来的,特别是从案件晚年退休大厦结束,客厅中的过仪内居住的房子像修道院或两个或三个小房间频日并继续Wiru幻想。美国日本的自然风光是塔书阳丽山,Witaふ应认为,它从四个榻榻米及两名间的增长,我现在,如果你把卧室,书斎,四畳半这是应思它是在二叠纪和三叠纪书斎只在三叠纪或结构,结构Wiru。相反,我将要离开,房子周围的许多空地。 Wiru宽敞最好是一个小房子在一个角落里的房子和土地上取囲新药。不幸的是,在京都也是蜜蜂思情况下,很少有这样的房屋。
京都是钱包或那些谁这样做,他们TsukomashiゝWiru我们喜欢的庭院。当涉及到房子的人设计,即使在京都郊区的大很大,应与客厅之间的庭院和客厅,以较小的地方,这/ \运,我以石头,大量的筑波山来挖一个池塘,穿过一石灯笼笼桥据我们一块石头,四槲我们种植松树(教学大纲健全)我们种植踯躅(杜鹃)Wenadoshite种植,使你庭Rashii。仅开放空间的房屋,甚至一些大的高新技术,是有可能类似,但京都仪人流,我不喜欢的Ushita为人民的花园没有。大Werareta对Wiru五十铃许多房子平地种植是一种颜色种类取囲马花 - 希望广大理由,一个较小比例的房子。我读了东篱记,房屋是喜风想象这样一个千年。
翁放射性瓮装满5石块,并种植了Wiru Wetato莲认为,应当对许多白春小麦贮如果我可以做的,水是Wiru应Ushita思想。 13年后,第一次时被转移到京都,在那里博士贺行Tsutara问候到1000,这是Datsuta藁葺屋,客户的Wi间宽敞南部和池塘的情况下,往往歧视在绯鲤大,在一水的情况下Wita链路游梁咏琪谢陈代势在新的繁荣。韦亚但我没有放弃,胜田羡马氏这是可怕的。它现在在鸭神侧下方,使低洼Wiru绝河水案件扰乱渗透高野河,淘汰迸日Wita清泉,自然,可能挖掘的蝙蝠咬伤。就像整个京都,是通过Wiru狭窄四面环山的山谷,没有流动只是在私营部门的山手场所进行打击的土壤水分很多河流处,挖一点。
第3个回答  2010-01-15
これは文语で书かれています。戦前の形式の文章です。日本语の达人である中国の方でも、文语までは难しいでしょう。
私には中国语訳は无理なので、现代仮名遣いに変更してみました。
ご参考にしてみてください。

小国寡民
河上肇

私はこの一文を読んで、放翁の晩年における清福を羡むの情に耐えない。
私は元から宏荘な邸宅や华美な居室を好まないが、殊に晩年隠居するに至ってからは、频りに(しきりに)小さな室が二つか三つかあるに过ぎない庵のような家に住みたいものと、空想し続けている。頼山阳が日本外史を书いた山紫水明楼は、四畳と二畳との二间からなっていたものだというが、今私は、书斎と寝室を兼ねるのなら、四畳半か三畳で结构だし、书斎だけなら三畳か二畳で结构だと思っている。その代り私は家の周囲になるべく多くの空地を残しておきたい。広々とした土地を取囲んだ屋敷の一隅に小さな住宅の建っているのが好ましい。残念なことに、京都には、借りようと思っても、そんな家は殆どない。
京都人はどういうものか、せせっこましい中庭を好んでいる。郊外の相当広い所でも京都人が家を设计するとなると、座敷と座敷とに挟まれた中庭を作つて、その狭い所へ、こてこてと沢山の石を运んで来て、山を筑き池を掘り、石桥を架け石灯笼を据え、松を植え木槲(もくこく)を植え踯躅(つつじ)を植えなどして、お庭らしいものを作る。たとひ小さな借家の仅かな空地でも、なるべくそれに似たものにするのが、京都人の流仪だが、私はそうした人为的な庭を好まない。ただの平地に植えられた色々な种类の花卉に取囲まれている家――家の小さな割に地面の広いのが望みである。私は东篱の记を読んで、ちよっとそんな风(ふう)な住い(すまい)を想像するのである。
放翁は五つの石瓮を埋め、それに泉を贮えて沢山の白莲を植えたと言っているが、私も出来ることなら、そうした水は欲しいと思つている。今から三十年前、始めて京都へ赴任した时、千贺博士のところへ挨拶に行つたら、それは藁葺の家だったが、客间の南は広々とした池になっていて、よく肥えた绯鲤が、盛んな势で新陈代谢する水の中を游ぎ廻っていた。私はそれを见て、ひどく羡ましかったものだ。そこは下鸭神社のすぐ侧で、高野川の河水が绝えず渗透している低地なので、少し土を掘ると恐らくこうした清泉が自然に迸り出ていたのであろう。総じて京都のような、山に囲まれた狭い盆地の中を川が流れている所では、山手に限らず市中でも、少しばかり土を掘り抜くと水のふき出る场所が多いのである。本回答被网友采纳
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